« 141110 猫の耳カット | トップページ | 141112 今日の京都は曇天 »

2014.11.11

141111 深見峠のお地蔵様

141105_fukamitoge_yugeyama_06141105_fukamitoge_yugeyama_07 11月5日(水)に京都北山「中央分水嶺/深見峠から弓削山」の下見を行いました。
 遅れていた写真を整理していたら、気になったことがあります。
 それは、深見峠のお地蔵様に彫られていた道の標識が「左 ふかみ〃ち 右 かわちたに」になっていることです。
 深見峠はご存じの通り、周山の京北・弓削町から南丹・美山町安掛に越える峠で、現在はトンネルで峠下を抜けてしまうので滅多に訪れる人もありませんが、中央分水嶺上の峠であり、丹波広域基幹林道が交差している重要ポイントでもありますが、お地蔵様に道標として彫り込むのであれば「左 ゆげみち 右 ふかみ〃ち」とでもすべきところで、道標に彫り込まれている深見道も河内谷もいずれも美山町ですから現在の深見峠の位置に安置されるのには違和感があります。

 気になったので調べてみると、金久昌業氏の「北山の峠 中巻・深見峠」の章にヒントがありました。
 以下に引用させていただきます。
 『私はこの外に弓削と中を結ぶ役割をも持っていたように思う。それは二〇年程前までは道があったことからしてもわかる。それは北山クラブの会員であり私の親戚でもある吉田鐵也君(現在京大農学部助手)がまだ学生であった頃、この峠道を一人で歩いたからである。この報告文は「北山クラブレポート集」第一巻に掲載されているが、彼は中から河内谷を遡る峠道を歩いて峠に達している。現在は植林のために峠付近の道は失われているので、中に行くためには峠から北に延びる五〇〇㍍の旧車道の四分の三くらいの地点から小さな谷に沿って上ってゆくと昔の峠道に乗り、小さな峠を越すと河内谷に下れると山仕事の人から最近聞いた。これによると今も中への峠道は何とか残っているらしい。

 この文章から判断すると美山町・中から河内谷を遡って深見峠に至る道と美山町・安掛から深見谷を遡って深見峠に至る道があり、どちらも往時は頻繁に利用されていたようです。
 別の箇所には『周山―弓削―深見峠―河内谷―中―知井坂と結べばほぼ直線だが、安掛廻りは遠廻りのように思える』ともありますから、深見峠から若狭に抜けるのであれば、安掛を経由するより、美山町・中から知井坂を越えて、堂本に至る方が時間的には早い道理です。

141105_fukamitogemap これらのことから推測されるのは、このお地蔵様は元々は現在の深見峠の位置に安置されていたのではなく、ここから北へ450m尾根を北上したP616mの標高点、あるいは更に600m西北の標高680mの鞍部(岩滝谷乗越)に安置されていたのではないでしょうか。
 この位置なら「左 ふかみ〃ち 右 かわちたに」という標識の彫り文字に一致します。
 峠としてはどちらも尾根越えの分岐になりますから、2011年4月10日に村田さん最後の山行となった「深見峠からホサビ山」で歩いた深見峠から山腹を巻くようにしてP616mに至った作業道(添付地図の赤い線)が元の峠を繋ぐ径だった可能性が強いと思います。
 北山の歴史は古くて深いから色々新しい発見があって楽しいです。


【引用】
深見峠 【金久昌業著 北山の峠 中巻 74頁~80頁】
もう今では深見峠というよりも深見トンネルという方が知名度が高い。それ程に国道一六二号
線のこの長いトンネルは、人々の頭から峠という観念を消し去ってしまっている。だが深見峠は
今も残っている。足で歩いた当時の峠ではなくトンネルの出来る前の車道としての形態だが、と
もかくトンネルの真上に健気にも生きている。街道の役割は両側の古道と共にもう遠くの昔に失
われているが、現在は伐採植林の仕事道の峠として使われている。車道以前の峠は今では知る術
もないが、現存の峠は車道を作るために切開いたものらしく、側面には石組みが施され、車がす
れ違い出来る程の広い地道がついている。仕事道の峠として現在使用中なので荒れてはいないが、
森閑と静まり返っているので、この地下に排気ガスと騒音が渦巻く激しい動きがあるとは思われ
ないほどである。この静寂の中にはやはり現役を退いた寂蓼感と心情的な荒廃感があることは被
えない。石垣のみが何かを語りかけてくる峠である。
この峠はまた材木が越えた峠である。由良川筋の材木を京都に運ぶためには、由良川から大堰
川に移さねばならなかった。そのために使われたのがこの深見峠と海老坂であった。知井方面か
らの材木の輸送は昔から筏が用いられた。由良川を流してきた筏はこの深見峠の場合、安掛で一
旦解かれ人の肩に担いで峠を越し弓削まで運ばれた。弓削からは再び筏に組み、弓削川大堰川を
流して京都の嵯峨に送られたのである。この峠にはこんな歴史がある。隔世の感はあるが、楽を
している現代人にはない力強さを感ぜずにはいられない。
前章では弓削川流域にひらけた集落を繋いで北上してきた小浜街道が、だんだん野が狭まって
山へ入ってゆくところまで書いた。このあと峠まで国道一六ニ号線の立派な車道がついているが
もはやこの道は人間の歩む道ではない。といって外に道もない。ということは峠に行くには車で
行くより外にないということになる。別に人間が歩いてはいけないと書いてある訳ではないが、
道路の雰囲気は人間の歩行を疎外するようになっている。これは人間優先か車優先かという問題
であり、何も都市だけの問題ではない。人間を従に見る歩道橋に何ら抵抗を感じない世相だから
私の云うことはわからないかもしれぬが、このことは非常に大きな問題である。このことを解決
するには先づ現代の物質機械文明なるものを考えねばならないし、自然の中の人間というものを
謙虚に認識しなければならない。そして人間の一番自然なあり方を自分で見つけるしかない。但
し自然保護というような安易な次元の考え方では自然の深さはいつまでたってもわからない。こ
の次元では自然保護と自然破壊は同義語である。何故なら自然保護という考え方は人間本位の考
え方だからである。或る所では保護し或る所では破壊している。保護というのは破壊のまことし
やかな弁明に過ぎない。本当に日本の自然がわかれば、なかなか人間が自然を保護するなどとい
う驕慢な言葉は云えないことだと思う。学問研究の仮説としてならばまだわからぬではないが、
一般の社会に用いられるのは感心しない。
また思わぬところに脱線してしまったが、この峠まで、というよりトンネルまでの舗装路は結
構美しい。道路が美しいのではなく、側面の景観が美しいのである。それは一貫した杉林の応接
であるが、霧が流れる早晨などは特に勝れる。梢を洩れる朝光が霧に融けて淡い光が幹に戯れて
いるかのようである。途中の男鹿谷では佐々里へ行く道を分ける。男峠から南水無峠を経てゆく
爽快な峠道だが、水無峠のあたりは道が失われている。深見峠に行くにはトンネルの入口から左
の車道に入る。地道で、一度切り返せば峠に出る。峠から向うは右の山腹を巻いて五〇〇㍍ほど
車道がついている。平坦に近く、車は通らないし、適当に古びてなかなかによい道である。とこ
ろがこの道御気嫌で歩いていると、突然途切れて行手が急激に落ち込む。そこは広場になった山
の鼻のようなところで、行き止まりのような地形である。昭和二〇年十二月トンネルが開通する
以前の道で残っているのは、トンネルの入口からここまでである。見晴らしはとてもよく、左下
方に一六二号線の白いうねりも部分的だが俯瞰される。郡誌などに深見峠の??と書かれているが、
車でトンネルを越した限りでは実感出来ない。だがここから眺めるとかなりな勾配が峠に向って
集中されていることがよくわかる。
以上はこの峠を弓削と安掛を結ぶ峠として見た場合であるが、私はこの外に弓削と中を結ぶ役
割をも持っていたように思う。それは二〇年程前までは道があったことからしてもわかる。それ
は北山クラブの会員であり私の親戚でもある吉田鐵也君(現在京大農学部助手)がまだ学生であった
頃、この峠道を一人で歩いたからである。この報告文は「北山クラブレポート集」第一巻に掲載
されているが、彼は中から河内谷を遡る峠道を歩いて峠に達している。現在は植林のために峠付
近の道は失われているので、中に行くためには峠から北に延びる五〇〇㍍の旧車道の四分の三く
らいの地点から小さな谷に沿って上ってゆくと昔の峠道に乗り、小さな峠を越すと河内谷に下れ
ると山仕事の人から最近聞いた。これによると今も中への峠道は何とか残っているらしい。地図
をひろげるとわかるように、深見峠から、安掛を通って中に行くのと、河内谷を通って中に行く
のとでは距離が違う。前者は三角形の二辺を歩くことになり、後者は一辺で済む。また周山―弓
削―深見峠―河内谷―中―知井坂と結べばほぼ直線だが、安掛廻りは遠廻りのように思える。だ
が弓削から安掛間の街道は知井坂方面の東方の旅人ばかりでなく、棚野坂、堀越峠、洞峠方面の
西方の旅人にも共有されたであろうから大きな街道であったことには間違いはない。従って安掛
は重要なポイントであり、小浜街道がここを通っていたことは確かである。このケースはこの街
道の周山廻りとよく似ている。だが峠から直接河内谷に下る道は間道として、また近道として存
在していたことは疑えない。また今では知る由もないが、古い或る時代にはこの峠道が主街道で
あった可能性もなくはない。中より下流の由良川は流域が広いといっても、街道にするには困難
な個所もあったかもしれないからである。このようにいろいろ考えてみるのであるが、やはり最
後には広い由良川流域が利用された安掛迂回の道が一番自然であり、また必然のようにも思えて
くる。とにかく古いことはわからないことが多過ぎる。
深見トンネルを出た一六二号線は、途中数軒の家がある深見の集落を通り、緩いカーブのター
ンを繰返しながら安掛へと下る。初めてここを通る人は由良川の初見参に或る心のときめきを覚
えるところなのだが、海水浴のドライバー達には無縁のことであろう。安掛は今ではレストラン
やドライブイン、それにゴルフの練習場まで出来て、昔の宿駅はカーリゾートに変貌した。ここ
から小浜街道は由良川沿いに東に遡る。中に行くまで、荒倉、大内、内久保、南、北と点々と集
落を繋いでゆく。由良川は下流に行くほど侵蝕がきつく、集落は皆河岸台地に発達しているが、
このあたりの上流地帯でも同じである。集落にはまだ藁屋根が散見し、水は清く山は深い。舗装
道路が伸びているのは表層の事象に過ぎぬ。そこに住む人々は昔とそんなに変っていないのでは
ないか。私はそういう人々を幾人か知っている。こんな美しいところに住んでいれば、悪くなり
ようもないし荒みようもないと思われるのである。

Posted on 11月 11, 2014 at 03:45 午後 |

コメント

コメントを書く