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2008.10.20

081020-2 水難碑

081019_suinanhi_001081019_suinanhi_002 3年も前に買っていながらあまりの厚さに読み始めるキッカケを無くして棚積みになっていた「細雪」を読み始めたキッカケは今夏の六甲・都賀川の鉄砲水もありますが、王子公園に住んでいた頃から、住吉川の西山谷合流点にある阪神大水害の碑を見るたびに河原から30mも上に大水害時の水位として記録されている碑が気になっていたためです。

 昨日、一人で野球の応援がてら神鉄・有馬口で途中下車して、以前から気になっていた丹生山系の東端の取付点を探しに行きました。有野川で六甲山系と区切られた丹生山系の東端には大規模な採石場があり、休日なら一人くらい登山者が通り抜けても判らないだろうと思って前まで行きましたが、その入口は車の出入りをチェックする立派な門で閉鎖されていて通行不可能でした。
 そこで、尾根に取付くには、手前の急斜面を登るしかないと藪に突入しましたが、急斜面を100mも登ったところに頑丈な鉄骨柱で2m位のフェンスがびっしりと張り巡らされていて、このルートも断念しました。

 山の話はともかく、神鉄・有馬口から、有馬街道に出たところに、大きな石碑が建っています。
 碑銘は「水難碑」となっていて、ひょっとしたらと思い、背面を見ると明治13年7月5日の当地を襲った未曾有の大水害と山津波云々とありました。
 「細雪」で詳細に描写された阪神大水害の被害が裏六甲の此の地でも大きな爪痕を残していたのですね。
 神戸は大地震や大水害と歴史に残る災難を経ていますが、海に面し、山が迫る東西に長い地形は大河の河口に発達した東京や大阪、固い岩盤の上に立つニューヨークやシドニーなどとは異質のリスクの多い都会です。
 今夏の都賀川の鉄砲水も治水計画の甘さが原因ですが、明治13年の大水害も江戸時代から薪や製炭用に六甲山の緑を刈り尽くした報いでした。
 戦後10数年たった昭和30年頃、まだ禿げ山が残る六甲に緑を取り戻す運動が盛んになり、きよもりも小学生の頃、芦屋川の駅でボーイスカウトの皆さんが、木々の種を登山者に配って、「六甲に緑を」と呼びかけていたのを今でも思い出します。その成果もあって今は六甲山系はほとんど地肌が見えないほども木々で覆われて、自然を取り戻しているように見えますが、それでも自然はわれわれの予想を上回る災害をもたらすのです。
 謙虚な気持ちで自然に臨みましょう。

 「細雪」にも描かれた阪神大水害の詳細な当時の写真と共に記事が紹介されています。
 大石川とか、住吉川など地元の川の当時様子が生々しく写されてます。

阪神大水害
 「七月五日の朝の事であった。いったい今年は五月時分から例年より降雨量が多く、入梅になってからはずっと降り続けていて、七月に這入ってからも、3日にまたしても降り始めて4日も終日降り暮らしていたのであるが、五日の明け方からは俄(にわか)に沛然(はい)たる豪雨となっていつ止むとも見えぬ気色であった……(中略)…阪神間にあの記録的な悲惨事を齎(もたら)した大水害を起そうとは誰にも考え及ばなかった」(谷崎潤一郎『細雪』)1938(昭和13)年7月5日に発生した阪神大水害の様子は、近代日本文学の傑作、谷崎潤一郎の小説「細雪」にも実に細かくえがかれている。
3日から5日まで、降り止むことなく実に462ミリもの雨が降りました。これは神戸の1年間の総雨量の約3分の1に相当するもので、たった2日半の間に集中して、まさに”バケツをひっくり返したような激しい雨”が降ったのです。そのため、六甲山の南斜面は至るところで山崩れが発生した。神戸市の背後にある六甲山系の山々は風化した花崗岩の為大量の雨水を吸い込むと崩壊し、山津波を起こし、土砂や巨岩・樹木を押し流し、、濁流は河川の堤防を決壊させ市街地を襲い全神戸が泥海と化した。神戸の被害状況は、死者616人、負傷者1011人、被災面積は649万坪(被災率26.4%)、市街地の被災率は59.3%)となり、市民の4分の3が被災するという未曾有の大災害であった。(神戸市水害誌)

Posted on 10月 20, 2008 at 07:09 午後 |

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