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2006.12.09

061209 六甲山上の池由来

Photo_32 今日は3人で六甲山上池巡り(下見?)です。
 六甲山上にはきよもりがリストアップしたものだけでも東の高山植物園から西の三国池の間に39個もの池があります。これは引用記事のように明治初期に冬場に氷を作って、夏まで貯蔵し神戸の街に降ろして商売していた名残だそうです。三国池の真ん中に島があるのも理由があったのですね。
 今日は幾つまで見つけられるでしょうか?
 プレートも出来たし、宝探しみたいで楽しみです。

「六甲山博物誌」玉起彰三著 神戸新聞総合出版センター刊より引用(P165~167)
アイス・ロード

柴草刈りの人たちの姿がみられるだけだったという不毛の山、六甲山、厳冬にはマイナス十五度にも下がり、山頂の池には分厚い氷がはりつめたといいます。
これに目をつけたのが京都の山田、神戸の浅井氷店で、それぞれ氷屋を開業したのです。ここに、六甲山頂の氷を切り出し町まで運ぶという、新しいなりわいが生まれたのです。時は明治七、八年。グルーム氏が別荘を建てるより二十年も前のことでした。
いま山頂付近には、大小三〇余の池が散在していますが、この大半が当時に掘られたものだといわれます。もちろん採氷のために掘った池で、自然にできた池と異なり、池の半分ほどを深く掘って結氷しやすくしたといいます。また、池の上手の外側には、周りに溝を掘り流水の人るのを防いでいました。時々池ざらえをして掃除もし、自然のわき水をためて良質の水を得ることに努め、大きな池には中央に小島をつくり、作業の安全と採氷の便をはかったといいます。三国池がその典型で、現在のたたずまいにも、当時の様子がしのべます。
冬、農閑期とあって、氷の切り出しには多くの百姓が集まったそうです。厚さ五寸(一五センチ)の三尺(九一センチ)角に大きな鋸で切りとり、池のそばの氷室と呼ばれる半地下の室におがくずを敷きつめ、むしろで風除けをして二枚ずつ重ねておきます。そうすると、その二枚がくっついて厚さ一尺(三〇センチ)の氷となって貯蔵されました。
この氷を、春から夏にかけて運び降ろすわけです。すべりどめのついた大八車が使われたのですが、少しでも氷が溶けるのを防ぐため、夜間作業となりました。夜、車を担いで山を登り、まだ日の昇らぬうちに氷をつんで山をかけ降りるのです。この道が、いまの六甲山ホテル前からケーブル下駅へと出る、前ケ辻道と呼ばれた険しい坂道でした。危険きわまりない仕事だったのです、その分、この氷は相当高値で売られたということです。
この氷の搬出の道はのちにアイス・ロードと呼ばれるようになり、よく整備されたハイキングコースとして親しまれています。由来を知って歩いたとしても、本当にこの急な坂道を大八車が降りたのだろうか、にわかには信じられないことでしょう。また、裏六甲の唐櫃村の人たちは薪や野菜などを背負い、毎日のように唐櫃道(シュラインロード)を登って山頂に出、このアイスロードを下って南の御影の町へと交易に往来したのです。そして、氷がこの道を通って運ばれた明治・大正の時代には、山上のゴルフ場をめざし、外人さんたちが駕籠て通った道でもあるのです。賑やかだった昔の面影、苦しかった生活の道、古くて遠くなったロマンのひとかけらでも感じることができるでしょうか。
人工製氷の発達とともに、天然氷は姿を消す運命となり、昭和四年(一九二九)の春、記念碑台のそばの黄楊池で採氷したのが最後となりました。とり残された池はこんどはスケート場として利用されます。しかしそのスケートもやがて終焉を迎え、いまでは荒れるにまかせる、といった現状です。水辺、水面・・・・・・。自然であれ、人工であれ、池そのものの存在もまた大事なものだと思います。きれいな池を蘇らせたいものです。

Posted on 12月 9, 2006 at 06:45 午前 |

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